写真集「BLUE」解説 p051-p100

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写真集「BLUE」解説

野上眞宏

P.051

アオイスタジオの大滝詠一。1970.04.

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ミキサールーム。左から大瀧詠一、小倉栄司、四家秀次郎、島雄一。1970.04.

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ミキサールームでプレイバックを聞く大滝詠一。1970.04.

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本番中の鈴木茂(左)と松本隆をミキサールームから見る。 1970.04.

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本番中の細野晴臣。1970.04.

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松本隆と大瀧詠一。1970.04.

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左から、細野晴臣、鈴木茂、大瀧詠一。1970.04.

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細野の自宅の中庭で撮影。ザ・ピーナッツとクレージーキャッツの人気番組『シャボン玉ホリデー』に出て来るハナ肇風オヤジコスプレをして遊ぶ細野晴臣。1970.04.

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シブヤ西武屋上で、「MAYカーニバル」があった。はっぴいえんどのほか小野和子、加藤和彦らも出演した。大滝詠一。1970.05.

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屋上で無邪気に遊ぶ鈴木茂と大滝詠一。1970.05.

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瞑想して演奏しているかのような細野晴臣。1970.05.

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かくれんぼを歌う大滝詠一。1970.05.

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一緒に写真を撮っていたダンサーの若林美宏は、天女の舞をはっぴいえんどの伴奏で踊った。天真爛漫で明るくチャーミングだなと思っていたので、何年か後に自殺したと聞いて悲しかった。1970.05.

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休憩時間を過ごす松本隆と細野晴臣。右はシンガー・ソングライターの小野和子。1970.05.

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246の渋谷近く。1970.12.

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大学を卒業して1970年4月に六本木アートセンタースタジオにスタジオアシスタントとして入社。玄関で、タバコなんぞをくわえてる。 1970.08.

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雨の新宿西口バスターミナルで、自宅に向かう。1970.07.

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首都高速道路。1970.12.

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夜のバスに乗って走りだすと、乗り合わせている少人数の人々と、闇の都会を永遠に彷徨い続ける気持ちになる。1971.10.

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青山通りに「Yours(ユアーズ)」というスーパーマーケットがあった。当時、スーパーマーケットと呼ばれた店は、「ユアーズ」と「紀ノ國屋」ぐらいしかなかったと思う。今ならセレブの行く流行りの店だった。品揃えもアメリカっぽくお洒落であった。そしてまず当時に24時間営業だったのがすごい。コンビニなどはなかった時代で、深夜営業のマーケットは、ぼくの記憶では、「ユアーズ」の他には六本木のテレ朝通りにあった通称「気狂い八百屋」(元は八百屋でそのうちなんでも置くようになったおっかないおばあさんのいるとても小さな店)だけだ。深夜うろちょろする人間が少なかったのだろう。「ユアーズ」ではいろんな人に出くわした。この写真では立川直樹氏。1970.07.

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ビクターのスタジオにフード・ブレインのレコーディングに行った。フード・ブレインは、ギターの陳信輝、キーボードの柳田ヒロ、ベースの加部正義、ドラムスのつのだひろの4人からなる。彼らのファーストで最後のアルバムでもあるこの『晩餐』は、日本のプログレ・ロックの最高峰とも言われている。ギターの陳信輝。1970.07.

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柳田ヒロ。なおヒロの「ミルクタイム」のレコーディングはこれの半年ぐらい前で(発売日は前後しているかもしれないが)、あのゴリラのジャケットがカッコ良かったので、フードブレインでも再び木村道弘氏(タ-ジ・マハル旅行団でもあった)にジャケットを頼んだ。1970.07.

P.074

ミキサールームの加部正義(中央)。1970.07.

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ベースの加部正義。1970.07.

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スタジオ内の加部正義。1970.07.

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ミキサーの近くは、左から、のちにワーナーを経てポリドールの社長になる折田育造、立川直樹、柳田ヒロ、つのだひろ。壁際の左から、山田泰美、立ち姿の陳信輝、1人おいて加部正義。また、ヒロは「当時の日本ではプロデューサーの存在や役割がはっきりせず、『晩餐』もそうだが、大体がバンドのセルフ・プロデュース」と言っている。1970.07.

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混雑する山手線で、ユーモアセンスのあるおじいさん。1971.05.

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新宿東口広場。アートセンターのアシスタント仲間の大越清美(バイクにまたがってる)くん、村山由美子さんと、新宿に遊びに行った。ユミちゃん(村山由美子)はイノセントで超キュートで大好きだっだ。1971.07.

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もうすぐお正月。門松が立ったアートセンター玄関前で。1970.12.

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その年の7月に『ロック・イン・ハイランド』で知り合った「WORKSHOP MU!!」眞鍋くんと、その奥さんであるミーコの写真を撮りたいと思い、アートセンターで深夜に撮影した。1970.12.

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その年の9月の時点で、ミーコに、写真を撮りたいとお願いしたら、気安くOKしてくれた。はじめて行った「WORKSHOP MU!!」の工房は、青山通りと表参道の交差点近くの池田屋ビルの7階にあり、エレベーターは6階までで、そこから先は階段をのぼらなければならなかった。階段の先には別世界が広がっていた。1970.09.

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アンティックに囲まれた眞鍋夫婦のプライヴェートスペースもあった。1970.09.

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「MU!!」の工房があった池田屋ビルの屋上。今はなくなってしまったこのビルは、青山通りに面した鰻屋さん「佐阿徳」の隣の7階建てビルだった。1970.09.

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ペンキで赤く塗られた壁。ところ狭しと置かれた不思議な佇まいの小物、アンティックの家具、ミーコのコレクションのお人形達……。ぼくにとっては全てが新鮮な物だった。1970.09.

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ヴォーカリスト・小坂忠のソロとしてのファースト・アルバム『ありがとう』は、マッシュルーム・レーベルの第1弾として制作された。このレコーディングには、はっぴいえんどから細野晴臣、松本隆、鈴木茂、他に大野克夫などが参加した。プロデューサーは、ミッキー・カーティス。右から、小坂忠、ペダルスティールを弾く大野克夫、ミッキー・カーティス。1971.07.

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モウリスタジオのミキサールーム。このモウリ・スタジオでは、この後、はっぴいえんどの『風街ろまん』が録音されている。1971.07.

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ミクサールームから見たスタジオ。1971.07.

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モウリスタジオの細野晴臣。1971.07.

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小坂忠再起の日比谷野外音楽堂コンサート。アルバム『ありがとう』の曲を初めて演奏した。出演していたミュージカル『HAIR』の公演も終わり、1970年からの忠の音楽シーンでの空白をきっちり埋めた初のソロライヴだった。1971.07.

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それまでとは打って変わってのカントリータッチで、ジェイムス・テイラー風のサウンドと心に響く美声との相性は抜群だった。『ありがとう』のプロデューサーだったミッキー・カーチスや「MU!!」のメンバーも応援に駆けつけていた。1971.07.

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「WORKSHOP MU!!」は71年の夏に、ジョンソン基地に近い、埼玉県狭山市のアメリカ村に事務所を移す。1971.08.

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返還されつつあった米軍基地周辺の住宅を、狭山市がセントラル給湯付き市営住宅として管理し始め、一般居住者を募集していた時期だった(全面返還は1973年)。1971.08.

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都心からはかなり遠いし、建物も古かったけれど、家賃は当時でも非常に安い2万3千円で庭付きのアメリカ風一戸建てに住めるということで、「MU!!」は即移住を決めてしまった。もちろん眞鍋とミーコに赤ちゃんができるということもあった。心機一転、東京の喧噪から逃れた「MU!!」は、新しい環境の中で、デザインの方向性まで変えてゆくのだった。1971.08.

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リビングルームからバスルームを見たところ。1971.08.

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ちょうどこの頃、ラリー・クラークのタルサという写真集を見ていたのでこんな写真を撮ってしまったのかも。1971.08.

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はっぴいえんどのセカンドアルバム『風街ろまん』の裏ジャケットの写真用に、狭山に撮影しに行った。この撮影の2か月後、1971年11月にアルバムは発売された。はっぴいえんどの後ろ姿。前々から撮ってみたかった。1971.09.

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アメリカ村で撮ったのは、ハウスとか見えてアメリカで撮ったようだが、実は日本の土地の上に立っている・・・というのがあった。アメリカンサウンドだけど東京の日本人バンド(笑)。直接的にはクロスビー・スティルス&ナッシュの最初のアルバムのような感じにしたいというイメージだった。だが撮っているうちにどんどん変わっていっちゃうものなんです。左から、松本隆、細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂。1971.09.

P.100

「WORKSHOP MU!!」の工房の奥村靫正の部屋で。左から、鈴木茂、細野晴臣、大瀧詠一、松本隆。1971.09.
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