01 細野晴臣との出会い

CATEGORY

はっぴいな日々

野上眞宏

01. 細野晴臣との出会い

1966年春、立教大学キャンパス内の通称“4丁目”の近く、うつぶせで芝生の上に寝ころんでいると、隣に脚をのばして座っていた友人の阿蘇喬が「細野だ」とつぶやいた。オフホワイト・コットンパンツのアイビー・スタイル全盛のキャンパスに、スレンダーで整った体型の細野晴臣が、脚より細いリーバイスのストレッチ・ブラック・ジーンズを履いている。「うーんカッコイイな」と、阿蘇の向いている先を見ながらぼくも思った。小わきに裸のままの教科書を持ってちょっと前かがみで、木漏れ日の中をレンガ造りの学食方向に歩いていた。よく晴れた暖かい日和である。「キレイな光」だと思った。
学園祭などでその姿は知っていた細野だが、立教高校時代には同じクラスになったことがなかったので、話すのは初めてだった。阿蘇は彼がいかに素晴らしいミュージシャンで音楽のセンスが良いかぼくに何度も話していたので、紹介されるのを楽しみにしていた。「ホソノー!」と阿蘇が呼ぶと、こっちを向いて「よー」と低い声で言ったみたいだ。
細野とは同じ学部で、取っている授業も共通するものが多く、それからは期末テストなどでも一緒に勉強した。テストの時期になると、勉強仲間の川嶋亮一と堀邦雄と共に4人でよく集まった。だが大抵は夜中にお腹が空いたりお茶をしたくなったりして車で青山や六本木に出かけてしまい、勉強は少しもはかどらなかった。その頃の細野は、たまにお茶目であったが、普段は口数が少なかった。川嶋はよく「細野はいつも黙っているから、内容があるように見えるんだよな」とからかっていたが、多分みんな、彼に何かを感じていたみたいだった。替わりばんこに、それぞれの家に集まって勉強したのだけれども、細野の家に行くとその圧倒的な量のレコードに驚かされた。ぼくは月5000円のお小遣いをもらって、2000円のレコードを1枚買って終わりで、いつも母に前借りをしていた状態だったので、それからは細野の家で細野がかけるレコードを聴くことにした。
テストで授業が早く終わると、新宿の「ジ・アザー」に行って午前中からアレサ・フランクリン、オーティス・レディング、ジェイムス・ブラウンらのソウル・ミュージックで踊りまくったりした。細野も踊りは上手かった。ぼくは高校3年生の夏休み(65年)に、ワシントンDCのセント・オルバン・スクールとの交換学生プログラムに参加して、大きなカルチャー・ショックを受けた。それ以前はどちらかと言うと引っ込み思案だったが、自分を解放することを強く意識していたので、なんでも積極的に楽しもうと思っていた時期だった。「ジ・アザー」には、ソウル・ブラザーズという、日焼けした褐色の顔、リーゼントにイヤリング、てらてらのサテン風スーツでキメた美形のお兄さんが2人いて、揃いのダンスがとてもとてもクールだった。現在のガングロ娘まで、日本のサブカルチャーの黒人への憧れはずっと続いている。その後は渋谷のヤマハに行ってレコードあさり、というのがお決まりのコース。
今になって考えてみると、ディスコ通いに一番狂っていたのは大学2年生の夏の3か月間ぐらいだったと思う。当時は新しいダンスのステップが2〜3か月ごとに登場したので、細野とぼくは赤坂、六本木、新宿のディスコに飽きたらず、池袋や新大塚の秘密クラブまで巡って最新のステップを教えてもらい、家でひそかに練習しては、また出かけて行ったのだった。
.
.
.
野上眞宏
(これらの文章は1999年に書かれ、レコードコレクターズ誌に連載されたものです。)

『IFC前夜祭』1970年1月13日の写真。

ヴァレンタイン・ブルー@都市センターホール

1970年1月13日、細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂、からなるヴァレンタイン・ブルーが、都市センターホールで開催された『IFC前夜祭』に出演した(IFC=インターナショナル・フォーク・キャラバン)。寒い日だった。客の入りもイマイチだった。ヴァレンタイン・ブルーは、かっこよくて細野らしい名前付けだと思ったが、この年4月のレコーディングの時に、バンド名を「はっぴいえんど」に変えた。ひらがなで「はっぴいえんど」というのは当時は衝撃的だった。
Related Projects